2009年06月16日

各務原キムチ(かかみがはらキムチ)は

各務原キムチ(かかみがはらキムチ)は、岐阜県各務原市特産のキムチである。「キムチ日本一の都市研究会事務局」から認定を受けた各務原市内の飲食店が製造販売している。

認定は「各務原キムチ販売店」と「各務原キムチ料理取扱店」があり、各務原キムチのイメージキャラクター「キムぴ?」の付いたのぼりが配布され店に掲げる事ができ、各務原キムチMAPにて紹介される。
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各務原キムチは、野菜をふんだんに使用したキムチである。通常キムチに使われる白菜、大根、きゅうりだけでなく、ヤーコン、竹の子、菊芋、エリンギ、カブ、エゴマの葉などを使用したキムチもある。

各務原キムチの定義(キムチ日本一の都市研究会事務局による)は、

各務原市特産のニンジン(各務原ニンジン)を使用する事。
各務原市の姉妹都市の春川市の特産の松の実を使用する事。
この2点以外は認定店の自由となっており、味も異なっている。 


沿革 [編集]
1999年(平成11年) - 各務原日韓親善協会が発足し、その活動の中でキムチ漬けの講習会が行なわれる。これが好評になる。その頃、各務原商工会議所は各務原市の新たな特産品を考えており、このキムチに目をつける。
こうして、各務原日韓親善協会、各務原商工会議所、JA等が協力し、都市おこしプロジェクトとして、各務原キムチを開発し、市内の十数か所の飲食店、業者等で製造、販売を開始する。折しも冬のソナタによる韓流ブームの最中であり、冬のソナタゆかりの春川市(チュンチョン市)と姉妹都市である各務原市には追い風となる。

2006年(平成18年)12月現在、各務原キムチ認定店は約60店である。
2007年(平成19年)6月1日 - 市内のSAX奏者・小島勇司氏制作のイメージソングCDキムチの気持ちが発売される。
2007年(平成19年)6月2日?3日 - 富士宮市で開催される第2回B-1グランプリ(全国のB級グルメのコンテスト)に出場。
2007年(平成19年)11月10日 - 各務原キムチが中小企業庁の「地域資源∞全国展開プロジェクト」事業の採択を受け、各務原商工会議所が中心となり開発した4種類の新商品が、かかみがはら産業・農業祭で発表された。
海鮮白菜キムチ - 各務原キムチを具材として炊き込んだ持ち帰り用釜飯。
特選★風キムチ - 白菜と大根のキムチ。
各務原キムチ・ポギキムチ - 白菜を丸ごと漬け込んだキムチ。
温感・各務原キムチボディーソープ - 唐辛子、松の実、ニンジンエキスを配合したボディーソープ。
2008年(平成20年)1月19日?20日 - 第2回各務原キムチまつりが河川環境楽園オアシスパークにて行われ、各務原キムチの屋台ストリートやキムぴ?との撮影会などが行われた。
2008年(平成20年)11月1日?2日 - 福岡県久留米市で開催された第3回B-1グランプリで、各務原キムチ鍋が3位入賞。

イメージキャラクター [編集]
「キムぴ?」

唐辛子を擬人化したキャラクター。「キムチを食べてハッピー」という願いが込められている。通常は唐辛子に顔と手足が付くだけだが、場合によってマフラーと眼鏡を身に着けたヨン様風のキムぴ?も登場する。

イメージソング [編集]
「キムチの気持ち」

韓国の音階とJAZZの要素を取り入れたイメージソング。オリジナルバージョンをはじめ、合唱バージョン、よさこいバージョン、吹奏楽バージョン、盆踊りバージョンがある。2008年日本屈指のプロ吹奏楽団シエナウインドオーケストラによって演奏される。現在CDは入手困難で、着うたが無料で配信されている。制作者はご当地ソングライター小島勇司氏。

その他 [編集]
市内にカルビーの工場があり、地域限定・ポテトチップス各務原キムチ味も製造している。市内の土産物店や駅売店などで販売している。(カルビー各務原キムチ味)
市内に本社を構えるゲーム会社、日本一ソフトウェアの手がけるPS3用ゲーム「魔界戦記ディスガイア3」内で回復アイテムとして登場している。

2009年05月30日

聖護院

聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山の寺院。同宗派設立以前は天台寺門宗に属した。山号はなし。開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。

日本の修験道の中心寺院の1つ。近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の2つに分かれたが、聖護院はこのうちの本山派の中心寺院であった。また、代々法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。江戸時代後期には2度にわたり仮皇居となったこともある。

当寺の開基は園城寺の僧・増誉である。増誉は1090年(寛治4年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた。この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられ、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を下賜された。これが聖護院の創建である。寺名は「聖体護持」の意である。熊野三山検校の地位はその後園城寺が引き継いでいたが、室町時代中期からは聖護院が務めるようになった。
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1236年(嘉禎2年)、熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静慧法親王(じょうえほっしんのう)が入寺したことにより、熊野との結びつきを一層深めた。また、静慧法親王以後、代々法親王が入寺する宮門跡寺院としての地位を固め、天台宗内で重要な地位を占めた。それと共に、それを背景として熊野の修験組織をまとめ上げ、熊野三山検校として修験道の重要寺院としての位置づけを確固たるものとした。

その後、応仁の乱に巻き込まれるなど、数度の火災によって焼失し、寺地も洛北(現・京都市左京区岩倉)や洛中を転々とするが、1676年(延宝4年)に現在地に再興された。

江戸時代後期には、1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用していたため、「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。

1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立(本山修験宗の設立は1957年)して天台寺門宗から独立した。

2009年04月27日

生物多様性へのダメージ

野生の動植物は、十分な水資源がなければ生活できない。沼地や湿地、河岸地帯が、適切な水の供給なしで成り立たないのは明らかであるが、森林などの陸上の生態系も利用できる水が減少するにつれ、その生活に著しい被害を受ける。湿原の場合、人口の増加を支える食料と住居の供給のために、かなりの広範囲にわたって開発され、自然が失われていった。だがその他の地域でも、人類の利益のために上流で水が堰き止められたりするなど、新鮮な水の流入が漸減したことによって土地がやせていっている。アメリカ合衆国内の7つの州では、議会が湿原の保護を法律で定めた1980年までの間に、80%の湿原が干拓された。

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ヨーロッパでは、湿原の消失が結果として生物多様性の低下をもたらしている。たとえば、スコットランドの数多くのボグが人口の増加に伴って干拓、開発されてきた。アバディーンシャーのポートレーテンモスでは半分以上の湿原が消失し、ホクオウクシイモリなど、この泥炭湿地から姿を消した生物も少なからず存在する。

マダガスカル中央の高原地帯では、1970年から2000年にかけて、森林という森林で大規模な伐採が行われた。焼畑農業はこの地方の生体量の10%を根絶し、不毛の荒野に変えてしまった。これは人口爆発の結果であり、貧しい現地の人々を養うためにやむを得ないことだったが、大規模な森林伐採のために広範囲の土壌が侵食され、川に大量に流れ込んだ土砂は川の水を赤く染めた。これにより、重要な生活用水が周辺の人々から奪われただけでなく、複数の河川系の生態系が破壊され、複数の魚類が絶滅の危機に立たされ、インド洋の一部の珊瑚礁が目だって失われた。

2009年04月10日

新古典主義音楽

新古典主義(しんこてんしゅぎ)の音楽とは、20世紀前半、とりわけ戦間期に主流となった芸術運動のひとつ。後述するように19世紀にも新古典的傾向の作曲家がいなかったわけではないが、楽派や音楽思想として一大勢力をなしていたとは言いがたく、また理想とされた「古典音楽」の意味内容も、19世紀と20世紀とでは異なっていた。

なお、「新古典主義音楽」は、明確な思想や主義主張に基づく芸術運動であり、「新古典派(しんこてんは)」のように訳すことはあまり好ましくない。

新古典的傾向の作曲家は、19世紀にもフェリックス・メンデルスゾーンやヨハネス・ブラームスのほか、アカデミズムの作曲家(英国のチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードや米国のジョン・ノウルズ・ペイン、ロシアのセルゲイ・タネーエフ)に見受けられたが、この場合に想定された「音楽の古典」は、バッハからベートーヴェンに至る18世紀の音楽のことだった。(現在でもパリ音楽院の教官は、新古典的・擬古的な作風をとることが普通であり、ジャン=ミシェル・ダマーズやピエール・マックス・デュボワにその傾向が認められる。)

一般的には、中でもブラームスについて、「ロマン主義者の中の新古典主義者」といった評価が今なお通用している。これは、ブラームスの作曲家としてのいくつかの側面を、当時の時代環境の中で位置づけたものであり、シューベルト以前のウィーン古典派を信奉し、伝統的な規模や音楽観、明晰な楽曲構成を墨守しようとした作曲態度について使われる。ブラームスの音楽は、しばしば新ドイツ楽派の作曲家の特徴に否定詞をつけて説明することができるように、本質的には保守的であった(ただし、その保守主義は、19世紀のロマン主義に特徴的な、歴史主義とつながりを持っていた)。ブラームスの旋律法は、ワーグナーの無限旋律とちがって、小さな楽節の集積から成り立っており、ワーグナーやリストと違って、調性ないしは調性感を極限まで拡張しようとはしていない。また、アントン・ブルックナーのようには、豊富な素材を用いて楽章の規模を拡張しようともしなかった。両者の違いは、新ドイツ楽派の作曲家は、ベートーヴェンが新たな道を指し示したと考えたのに対して、ブラームスは、ベートーヴェンが古典的な音楽のあり方を完成したと見なしていたことにも表れている。

かつてはセザール・フランクやエドワード・エルガーも、ブラームスの作風との表面的な類似から新古典的なロマン主義者とされたが、彼らの管弦楽曲や交響曲に見られるような、調性感や楽曲構成の拡張という点では、新古典主義と言うことができない部分がある。また、リヒャルト・シュトラウスは、特に後半生で、拡張された調性や和声法を踏まえながらも、しばしばモーツァルトやメンデルスゾーン、ベートーヴェンへの回帰を模索している(オーボエ協奏曲や「メタモルフォーゼン」など)が、やはり過去へのロマンティックな憧憬を超えるものではなかった。

また、単に擬古趣味というだけならば、19世紀においても、リストのいくつかのオルガン曲やグリーグの《組曲「ホルベアの時代から」》、チャイコフスキーの《弦楽セレナード》や歌劇《スペードの女王》のディヴェルティメントなどの例があった。しかし、新古典主義とは、音楽的な趣味やセンスに対してではなく、音楽観や音楽思想に対して使われるものである。

20世紀の新古典主義 [編集]
20世紀の「新古典主義音楽」運動は、フランスやイタリア、ロシアなどの、非ゲルマン民族によって興され、ドイツ・ロマン派音楽と、その残滓であるフランス印象主義音楽とドイツ表現主義音楽を一括して否定するところから始まった。新古典主義音楽がこれほどの勢いを持ったのは、第一次世界大戦への嫌悪感や、ドイツ音楽の低落とそれ以外の音楽の目覚しい成長、そして主にフランス留学組によるアメリカ人作曲家がこの音楽運動の主な担い手となったことによっている。さらに、19世紀の擬古的な作曲家と違っていたのは、この運動の担い手が、議論好きの論客であり、自らの音楽美学を理論武装していたことである。

予見者たち [編集]
20世紀における「新古典主義音楽」を準備した作曲家は、3人いる。一人はフェルッチョ・ブゾーニ、もう一人は最晩年のドビュッシー、そしてもう一人はマックス・レーガーである。

ブゾーニは、同時代の動向からロマン派音楽の終焉を予見し、そのうえで「モーツァルトへの回帰」「バッハへの回帰」を呼びかけている。ブゾーニは、歴史主義的立場に立ってロマンティックに過去を回顧したのではなく、19世紀末のロマン派音楽は動脈硬化を起こしかけてもはや袋小路に入っており、それを脱するには若返りが必要だとの認識に立っていた。したがって、古典派音楽以前に倣って、感情から超然とした、どちらかといえば形式主義的な音楽づくりにとりくむこと、苦悩や絶望の表現ではなく、愉悦感の表現を取り戻すことが重要であるとされ、ブゾーニ自身その主張に従って、ディヴェルティメントや、セレナード的な性格の器楽曲を量産した。また、番号オペラへの復帰や、オペラ・ブッファの作曲も、その主張と関係があった。ブゾーニは、亡くなる前にも新古典主義音楽の理念を自ら擁護している。

ドビュッシーは、意識的な、あるいは理論的な新古典主義者ではなかった。しかし、しばしばラモーやクープランを称揚し、またモーツァルトへの愛情を語るなど、音楽家として古典的なものへの憧れを持っており、それが表現の節度を目指すという姿勢につながっていた。またピアノ曲では、早くからバロック舞曲やトッカータ的な書法を採用している。とりわけ注目すべきは、最晩年の3つのソナタ(チェロソナタ、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ、ヴァイオリンソナタ)である。以前のような詩的な題名に頼らずに、抽象的に作品を構成しようとしている姿勢は、戦後の新たな動向を十分に予告するものとなっている。

マックス・レーガーは、基本的にはロマン主義者であり、ドビュッシーと同じく自らの作風を理論武装していたわけではない。重厚で入り組んだテクスチュアは、後期ロマン派音楽の典型とさえ言いうる。しかしながら、同時代の情感過多を排除した、超然とした表現や、機械的・形式主義的な楽曲構成は、ブゾーニの主張を別の側面から実現するものでもあった。レーガーはその意味において、ブラームスからヒンデミットに橋渡しする作曲家であったと言える。

ちなみにヒンデミットは、レーガーのみならずドビュッシーからも影響を受けていた。

戦間期における開花 [編集]
1900年代にブゾーニが自説を開陳したときは、夢物語と一蹴することもできたが、第一次世界大戦後になると、以前の風潮や時代の趣味への嫌悪感や、物質的な理由も手伝って、現実味のあるものとなった。有力な演奏家が徴兵され、ある者は落命し、ある者は障害者として戻ってきたため、以前のような演奏者数が確保できなかった。また、ワイマール共和国やオーストリア共和国では、物価の異常な高騰によって、大オーケストラのために新作を書いても、特例がない限り上演が困難であったという事情もあった。さらに、フランスを経由してジャズがヨーロッパを席巻した。このような状況が音楽の変化を促した。

ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

2009年03月26日

SMILEVIDEOにアップロード

ニコニコ動画と提携しているSMILEVIDEOにアップロードされているアニメ、ミュージカルライブ、テレビCM、テレビ番組などは、ほとんどの動画が著作権者に無断でアップロードされたものである。利用規約では著作権侵害になるファイルのアップロードを禁止しているが、著作権法違反の投稿は後を絶たないのが現状である。

権利者(個人、法人、法定代理人含む)から権利を侵害されているとの申し立てがあれば、審査し削除するとしている。その他肖像権などの権利侵害もこれに準ずる姿勢をとっている。性的描写を含むアダルトコンテンツは閲覧者の判断で報告できるが、こと著作権に関しては権利者からの申し立てのみ受け付けているため、アダルトコンテンツ程迅速な対応はされていない。
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他の「動画共有サービスサイト」にも言える問題ではあるが、YouTubeでも著作権違反に関する規制が強化されているのに比べ、ニコニコ動画は登録制でクローズドな側面もあってか、著作権法を軽視する傾向にある(MAD動画なども削除の対象になる)。性的描写を含むアダルトコンテンツは迅速な対応・削除という運営側の対処に比べ、著作権法違反に関する動画がこのような対応がされるのは稀で、著作権違反動画の投稿禁止は表面上だけでほぼ黙認状態に近い、との指摘もある。

ただ、最近では連続アニメーション作品の本編や連続ドラマ作品の本編や邦画を含む映画などが多数アップロードされるなど、運営サイトも黙認はしていられない状況となっているためか、著作権侵害動画の削除(報告)ツールを法人向けに提供している[10](2007年6月10日前後より、この申請方法によって削除された動画のページでは通常の削除通知動画とは異なった静止画が表示されている)。削除はあくまで被権利侵害者の報告のみ受け付けている。いわば権利侵害被害者の自助努力に任せる方法で、一部のコンテンツ制作者がこうした運営の手法をラジオ等で強烈な批判を成したこともあった。2007年10月1日には権利保護を強化する方針を発表、権利者との対話を強化し、権利保護システムや監視体制の強化、利用者への啓発活動に取り組むとしている[11]。ニコニコ動画 (SP1) 開始直後の2008年3月11日には、ニワンゴがNHKやキー局に対し、著作権侵害をしている既存の放送番組動画を削除し、監視体制を強めて今後再投稿されても直ちに削除する、との宣言を行った[12][13][14]。

しかし、自作物(完全なオリジナル作品)に対して著作者に成りすまして削除を依頼する可能性も指摘されている[15]。また著作権保護体制の強化で、インディーズバンドのPV、ライヴ映像を削除したところ、その動画のアップロード主がインディーズバンド本人であり、削除された本人がニコニコ動画に対し激怒していた、といった運営側による誤った削除が行われることもある[16]。2008年7月5日からは、権利者の申し立てにより動画が削除された場合、削除を申し立てた法人・団体の名前が明記されることになる[17]。ただし、今後増えるであろう個人の著作に関しての対応については名言されていない。

一方、2007年度の上半期に放映されたアニメでは、『らき☆すた』、『ハヤテのごとく!』、『さよなら絶望先生』『ケロロ軍曹』(第234話Aパート)といった作品において、明らかにニコニコ動画で視聴され、ネタにされている事を前提とした表現がなされており、アニメ制作の現場において、ニコニコ動画において作品が消費される事が意識されていることが垣間見られた。上記の削除時の仕様変更により、ニコニコにおける権利者の対応の差は今後さらに明白になっていくことが確実といえる。

2008年4月1日にJASRACと楽曲の使用についての契約を締結し、JASRACが管理する曲を演奏したり歌ったりした動画をアップロードすることが可能となった。ただ、アップロードが認められるのは「自分で演奏したり、自分で演奏しながら歌ったりした動画作品」であり、CDのカラオケトラックをそのまま使用して歌った場合などには、著作権侵害とされる可能性は高いので、打ち込みしたものを歌うなどの対策が必要。[18]

2008年7月2日には、社団法人日本映画製作者連盟、有限責任中間法人日本動画協会、社団法人日本映像ソフト協会の三団体からの要請を受けていたニワンゴがこれらの団体と協議し、ニワンゴから「これら三団体の会員各社の著作権を侵害する動画はMAD動画も含み速やかに削除する」ことが提案され、三団体が申し入れ書を受領したことが親会社ドワンゴより発表された[19]。ただし、近年では著作物を使用しない「手描きMAD」と呼ばれるタイプの動画も存在しており、「MAD」という線引き自体が曖昧な側面もある。

カテゴリタグ騒動
2007年5月2日、トップページが改変された際、いくつかのカテゴリタグが指定され、そのタグが付けられていない動画はトップページに上がってこないという仕様変更が、ユーザーへの通達を一切無くして突然行われた。しばらくしてブログにて正式発表があったが、ユーザーからは非難が殺到。その多くはタグの内容に関するものであった。タグのなかには「おもしろい」「つまらない」という、評価が個人的価値観に基づくものや、「R-18」という、本来は規約で禁止されているはずのものまで含まれており、これらの必要性や矛盾を指摘する声が多く上がった。これを受け、運営側はカテゴリタグを再び改変し、騒動は終息した。しかし、問題とされた「R-18」のタグは未だに存在している。これについては通常のテレビ放送で許される程度の動画であれば削除されないとのことだが、やはりその基準は曖昧である(性的表現を含むと判断された動画は今まで通り削除されている)。

2009年03月11日

エバーグレーズ国立公園

エバーグレーズ国立公園(えばあぐれえずこくりつこうえん、Everglades National Park)は、 エバーグレーズの南部(タミアミ街道の南すべて)を保護しているが、元の湿原地帯のわずか20 %に相当するのみである。 公園の面積は2,357平方マイル(6,105平方キロメートル)で、世界遺産となっている。 主要部にアクセスする唯一のハイウェイはフロリダ州道9336号線と公園内へ続く延長道路で、 フロリダ市からフラミンゴの海岸まで38マイル(61キロメートル)を走っている。 ビジター・センターとその他の小規模な公園施設を除き、公園内は開発が行われていない。この1,296,500エーカー(5,246平方キロメートル)の地域は マージョリー・ストーンマン・ダグラス(Marjory Stoneman Douglas)自然保護区域に指定されている。

この地域は1934年5月30日米国の国立公園として認定されたが、1947年12月6日まで完全には設立されなかった。 公園は1976年10月26日国際生物圏保護区に指定された。 1978年11月10日、公園のほとんどが自然保護区域に指定された。 自然保護区域は、2003年に、1,296,505エーカー(5,247平方キロメートル)、すなわち公園の約86%をカバーするように指定された。 1979年10月24日にはユネスコの世界遺産に、1987年6月4日にはラムサール条約登録地としてリストアップされた。 しかし、1993年、危機遺産リストに載せられた。

公園内には多くの駐車場とトレイルがあり、その中で最も有名なトレイルはアンヒンガ・トレイル」(Anhinga Trail)である。 このトレイルでサギやヘビウ(anhinga)のような鳥にとても近づくことができる。 後者の鳥はしばしば板張りの道の手すりに止まる。 公園には1年中カがおり、夏には虫除けがあっても大きな問題となる。

2005年11月, ハリケーン・ウィルマは、フロリダの先端を横切り、公園を破壊した。 公園内のフラミンゴ地域は大きな損害を受けた。 ビジター・センター、ロッジ、レストラン、マリーナ・ストアは閉鎖され、パーク・レンジャーが付き添わない旅行者は誰もその地域に入れない。 2006年3月14日現在、マリーナ・ストア、ビジター・センターとボート・ランプが開いている。 ロッジ、フラミンゴ・レストラン、ボタンウッド・カフェはまだ閉鎖されたままである。最新情報はエバーグレーズ国立公園のウェッブサイトで見つけ出すことができる。

エバーグレーズ国立公園は東をマイアミ、ホームステッド、フロリダ市の都市部と農村部に、南をフロリダ海峡とフロリダキーズに、西をメキシコ湾に、 北をビッグ・サイプレス国立野生保護区(Big Cypress National Preserve)に囲まれている。 ビッグ・サイプレスは、エバーグレーズ国立公園の北部に似ており、公園自体の約半分の大きさがある。

公園の南地区には、アーネスト・F・コー・ビジター・センターがあり、公園の中心となっている。 ビジター・センターは、ホームステッドとフロリダ市のちょうど西側の州道9336号線沿いにある。 そこから西に4マイルのところに、ロイヤル・パーム・ビジター・センターがある。 ロイヤル・パーム・ビジター・センターとアーネスト・F・コー・ビジター・センターの間の一般的な地域は、数マイル西にあるヒドゥン・レイク・エデュケーション・センターと ダニエル・ベアード・センターと同様、松が自生している地域に包まれている。 大きなテイラー・スルー(Taylor Slough)がロイヤル・パームからフロリダ湾まで流れている。 また、ロイヤル・パームの西側に、ロング・パイン・キーがある。 ロング・パイン・キー(実際には島ではない)は、ロイヤル・パームから9336号線で約4キロメートルのところにあり、松が自生する地域に似た森の中の有名なキャンプ場である。 9336号線で西にさらに4マイルのところにパヘイオキー展望台がある。一段高くなった展望台で公園を北に見渡せる。

9336号線は南に続き、大きなヌマスギの湿地を通っている。 この沼のちょうど外側に、マホガニー・ハンモック(Mahogany Hammock)がある。アーネスト・F・コー・ビジター・センターから20マイル離れた、公園の奥にあるトレイルである。 さらに南に行くと、海岸沿いのマングローブの湿地にいたる。 無数のマングローブの木に隠れて、多くの小さな湖のような入り江とフロリダ海峡に注ぐ川がある。 この地域の沼地のような入り江は、ルイジアナを除き、米国唯一のものである。非常に数は少ないがアメリカワニがいる。 またこの地域にはマナティーがいる。涼しい秋の朝、水面でしばしば見つけられる。 9336号線の終点には、フラミンゴ・ビジター・センターがある。公園内の最南端のビジター・センターである。 ビジター・センターは、乾燥した海岸沿いの草原地帯にあり、フロリダ湾のすぐ北にある。 フラミンゴから伸びるトレイルは、西に伸びフロリダの最南西部の岬、ケープ・セーベルに至る。 またフラミンゴから伸びているのは、99マイルウィルダネス・ウォーターウェイで、南のフラミンゴから北のガルフ・コースト・ビジター・センターへのカヌー旅行ができる。 ガルフ・コースト・ビジター・センターは、エバーグレーズ国立公園の北西部だけでなく、隣接するビッグ・サイプレス国立野生保護区についてもビジター・センターの機能を果たしている。
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公園の北地区では、最も有名な場所はシャーク・バレー・ビジター・センターである。 このセンターから始まりそして終わるトラム・ロードは公園の北東部の境界からシャーク・リバー・スルーまで約7マイル伸びている。シャーク・リバー・スルーは、広大な淡水の湿地で、 オキチョビー湖 (公園の北)からフロリダの南西海岸まで流れている。 シャーク・リバー・スルーには、無数の小さなジャングルのような広葉樹のハンモックが点在し、多くのエバーグレーズの哺乳類と猛禽類の生息地となっている。

一般的なシャーク・バレー地域は、おそらく旅行者がエバーグレーズのことを考えるときほとんどの人が思い浮かべる地域で、果てしなく広がっているように見えるソーグラスにあらゆる方向から囲まれている。 アリゲーターと渉水鳥はしばしば旅行者の足元に来る。時にのろのろしたアリゲーターは道を塞ぐ。 シャーク・バレー・トラム・ロードが北に引き返すところにシャーク・バレー展望タワーがある。 南にソーグラスの草原を見渡す65フィートのタワーである。

植物相
島の土壌は、とても肥沃で、しばしば氾濫にさらされるが、徐々に水の地域が土に置き換えられつつある。 植生は豊かで、オーク、ポドフィルム、野生のオレンジ、キュウリ、ポーポー、カスタードアップル、野生のゴムノキは固有種の一つである。 その上、様々な野草があり、とりわけランは特筆すべきである。 2つの季節、雨季と乾季があるが、気候は温和である。

動物相
公園で有名なのは、ミジカオノスリ、オオハシカッコウ、オオフラミンゴで、北米大陸で唯一の常時暮らす場所となっており、 通常フラミンゴの街の近くにいる。 その他、サギ類、アメリカトキコウ、ベニヘラサギ、トキ類のような渉水鳥も豊富である。 ツルモドキ類もエバーグレーズで見つけることができる。

猛禽類としては、珍しいタニシトビ、一般的なカタアカノスリ、ミサゴがあげられる。

フロリダ湾の干潟でペリカン、シギ・チドリ類などの渉禽類、アジサシ、クロハサミアジサシがフラミンゴの街から見られる。

カナダカワウソ、アメリカアリゲーター、アメリカワニがおり、シカと絶滅の危機に瀕しているフロリダピューマも見られる。

2009年02月22日

エスペラント(Esperanto)

エスペラント(Esperanto)はラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。

エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されている。(使用状況を参照)
リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

当初は特別な名称を持たなかった(単に「国際語」とされていた)が、創案者のラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフが「エスペラント博士(Doktoro Esperanto)」というペンネームを使って発表したため、しだいにこの名で呼ばれるようになった(「エスペラント博士の国際語」と呼ぶのは面倒)。この「エスペラント」とはエスペラントの単語で「希望する者」という意味である。ザメンホフは、帝政ロシア領(当時)ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人眼科医で、1887年7月14日にUnua Libro(最初の本)でこの言語を発表した。

ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母語に成り代わるというよりは、むしろすべての人の第2言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった。現在でも彼の理想を追求している使用者が多くいる一方、理想よりも実用的に他国の人と会話するためや、他の国や異文化を学ぶためのものと割り切って使っている人もかなりいる。今日では異なる言語間でのコミュニケーションのために、旅行、文通、文化交流、ラジオ、インターネットテレビなど様々な分野で使われている。 英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢への対抗的姿勢が、多くの場合に、とって代わるべき国際補助語としてこのエスペラントを持ち出している。

エスペラントは1880年代にラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって創案された。最初の文法書は1887年に発表された。

言語の開発
最初、ザメンホフはラテン語の復権が言語問題の解決策になると考えていたが、実際にラテン語を学ぶと難しいことに気づいた。英語を学んだ際、名詞の文法上の性及び複雑な格変化並びに動詞の人称変化が不要であることに気づいた。 言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないが、街を歩いているとき偶然、ロシア語で書かれた二つの看板を見て、解決策を思いついた。 швейцарская(シュヴェイツァールスカヤ 門番所)とкондитерская(コンディテルスカヤ 菓子屋)という二つの看板には、共通して-skaja(スカーヤ 場所)という接尾辞が使われていた。 彼は一つ一つ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使って一つの単語から一連の単語群として作り出せるようにする方法を考えた。基本となる語彙は、多くの言語(ただし、ヨーロッパの言語に限られる)で使われているものを採用した。

1878年、現在のエスペラントのプロトタイプといえるLingwe uniwersala(リングヴェ ウニヴェルサーラ)を、ザメンホフはギムナジウムの同級生たちに教えた。その後6年間、まず各民族語の文学作品の翻訳と詩作に取りかかり、新しい言語の欠陥や運用上の扱いにくさを無くすことにした。ザメンホフは後の1895年にロシアのエスペランティスト、ニコライ・ボロフコに宛てた手紙に「私は6年間を言語を完璧にするために費やした。たとえそれが1878年の段階で既にできあがっていたとしても」と書いている。彼はもう既に自らの言語を公表できる準備ができていると考えていたが、ロシア政府の検閲がそれを許さなかった。これにより公表が遅れたが、その間、彼は旧約聖書やシェークスピアの作品などをエスペラントに翻訳し、言語の改良も重ねていった。1887年、ようやく出版されたUnua Libro(最初の本)でエスペラントの基礎について紹介した。こうして今日話されているエスペラントが世に出された。

最初の世界大会まで
最初のうち、エスペラントの話者どうしの交流の手段としては、文通か雑誌『La Esperantisto』(1889年から1895年まで発行)ぐらいしかなかった。1905年までに17のエスペラント関係の雑誌が発行された。活動は最初ロシアや東ヨーロッパに限られていたが、次第に西ヨーロッパやアメリカ、アジアに広がっていった。日本では1906年に二葉亭四迷が日本最初のエスペラントの教科書「世界語」を著した。

1904年小規模な国際会議が開かれ、それが1905年8月、フランスのブローニュ=シュル=メールで行われる最初の世界エスペラント大会の開催につながる。このときは33の国から688人が参加した。大会でザメンホフは、エスペラント運動の指導者としての地位を公式に放棄した。ザメンホフ自身がユダヤ人であったため、反ユダヤ主義による偏見が言語の発展を妨げるのを恐れたためである。彼はエスペラント運動の原理に基づいたブローニュ宣言を提案し、大会出席者たちはこれを採択した。

言語の発展
1905年にフランスのブローニュで開催された第1回世界エスペラント大会で、『エスペラントの基礎』の変更を制限する宣言が採択された。宣言は、言語の基礎をザメンホフが出版した『エスペラントの基礎』(Fundamento de Esperanto フンダメント デ エスペラント)から変更してはならないとし、いかなる者もこれを変える権利を有しないとした。この宣言は使用者が適当と思うように新しい考えを発表しても良いとしているが、本来の形を奨励している。

しかしながら実際には、現代のエスペラントの使い方は『エスペラントの基礎』で示された「お手本」と完全に一緒というわけではない。例えば「私はこれが好きです。」の一文をエス文に翻訳するときを例に説明する。『エスペラントの基礎』に沿って訳せば"Mi amas ĉi tiun."(ミ アーマス チ ティーウン)となるが,これは「私はこれを愛しています。」の意味となり、少し意味が強すぎてふさわしくないと感じるエスペランティストが多く、実際には"Mi ŝatas ĉi tiun."(ミ シャータス チ ティーウン)で代用することが多いが、これは元来「私はこれを高く評価します。」という意味であり、元の意味からは少しずれている(ただし,現行の辞書では動詞"ŝati"を「好きだ」の意味で使うことを追認している)。また、"Ĉi tiu plaĉas al mi."(チ ティーウ プラーチャス アル ミ)と訳すこともある。逐語訳すれば「これは私に気に入る」であり、完全に同じ意味ではないが、こちらの訳の方が「私はこれが好きです。」の意味に近い。

ほかの慣習的な変化としては、国名を表す接尾辞が-uj-から-i-に変わったことがある(例:Japanujo → Japanio)。また、厳密に言えば、エスペラント化された単語のうち-aで終わる単語はすべて形容詞であるが、ヨーロッパ諸語でのMariaのように-aで終わる名前や、それ以外の言語での人名なども、現在では慣習的にエスペラント化された名詞として認められている。『エスペラントの基礎』に従うなら、エスペラント化された名詞は、すべてMarioのように-oで終わらなければならないはずである。またĥの発音がとりわけ難しいとされてkに置き換えられるなど、語形変化も起こっている。

加えてエスペランティストたちは、新しく登場した事物や概念、外来語を表すために、さまざまな新語を取り入れた。これらはそのまま使うのではなく、可能な限りエスペラントの造語法などに従った形で取り込まれている。例えば、コンピュータ(computer)はkomputilo(コンプティーロ)といった具合である(道具を意味する接尾辞-il-を使っている)。これにより、テレビやウェブやウィンドウズやマックなど、ザメンホフの時代には存在しなかった事物も自由に表現できるようになっている。「CD-ROMの中のbinというフォルダにあるボールペンのアイコンをダブルクリックするとウィンドウズにワープロのプログラムやファイル、フォントなどがインストールされます。このときインターネットに自動的にアクセスするので、通信を許可するようにファイアウォールを設定してください。」といった文章も、現代のエスペラントでは表現できるのである。

新語の導入はエスペランティストなら誰でも提案することができ、最終的には一種の「競争原理」を勝ち抜いて人口に膾炙するようになったものが受け入れられる。例えば「コンピュータ」に関しても、komputmaŝino、komputatoro、komputero など様々な提案が行われたが,最終的にエスペランティストにとって最も簡潔と思われるkomputiloが勝ち残ったのである(この際,動詞komputi「計数・計量する」に「計算機で計算(演算)する」という意味が付け加えられた)。エスペラントの言語としての統制機関としてアカデミーオ・デ・エスペラントが在るが、個々のエスペランティストをがちがちに縛り付けるようなことはしていない。

新語はどんなものでも受け入れられるとは限らない。例えば「安い」を意味する新語ĉipa(チーパ・英語のcheapに由来)は、長たらしいmalmultekosta(マルムルテコスタ:mal/multe/kost/a=「(反対)・多く・費用・(形容詞)」)に代わるものとして造られたが、あまり使われていない。

最初の世界大会以降
1905年以降、世界エスペラント大会は二つの世界大戦の間を除き、毎年開催されている。

1920年代、国際連盟の作業語にエスペラントを加えようという動きがあった。日本の新渡戸稲造をはじめ10人の各国代表者が賛同したが、フランスの代表者ガブリエル・アノトーの激しい反対にあい、実現しなかった。フランス語は英語に国際語の地位を脅かされつつあり、エスペラントを新たな脅威とみなしていたからである。

その後、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンはエスペラントの人道主義性・博愛性に危険を感じ(ほとんど「言いがかり」である)、エスペランティストたちを粛清した。ヒトラーは『我が闘争』の中で「エスペラントは離散したユダヤ人を結集させる国際語だ」とし、スターリンは「エスペラントはスパイの言語だ」と明言した。

年表
1859年:エスペラントの創案者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフがポーランドに生まれる。
1887年:最初の文法書が出版される。
1905年:第1回世界エスペラント大会がフランスのブローニュ=シュル=メールで行われ、『エスペラントの基礎』が出版される。
1908年:当時19歳のエスペランティスト、ヘクター・ホドラーが中心となって世界エスペラント協会(UEA)が設立される。
1966年:パスポルタ・セルヴォ(エスペランティストの国際ホームステイシステム)が始まる。
2001年:エスペラント版ウィキペディアが発足。現在エスペラント界で最も人気のあるウェブサイトの一つである。

2009年02月06日

尾崎行雄

尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年[1]11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日)は、日本の政治家。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。

号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。
セレン ケース ルージュ データ スワップ スーパー オルグ マスイブ 碁の杯 ズッキーニ プルト ディレ ポーリア デーリー タイプ ドラゴン パスヒ バットレス ギムレ ピート トウヨ リッドカ コリー いちい パネル メタセ バンダ リファレ ブラーフ ドリティ かみいそ ひけつ ノクロス オブジェキ ヒットソ ピア ポール フルスケ ハネウェル バウチ ロスペクト レッサー アクセス ソンク ばいせん シーランド フリース しぶし レシピ ハイビ

相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、明治元年(1868年)に番町の平田塾にて学び、一家も明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。明治7年(1874年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、明治9年(1876年)に工学寮(のちの工部大学校。帝国大学工科大学を経て、現・東京大学工学部)に再入学する。

明治15年(1882年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加。明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。

明治23年(1890年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。明治31年(1898年)、第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。

明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長、大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。

当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者となった。また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった[2]。 昭和17年(1942年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。

昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。

戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。95歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である(アメリカではストロム・サーモンドが連邦上院議員を100歳まで務めている)。1950年には英語国語化論を提唱したこともある。 世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)初代会長

昭和29年(1954年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。96歳。墓所は鎌倉の円覚寺。

人物
永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。

相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。

東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。

難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生まれた三女。

金銭的にも清廉潔白で有名であった。もっとも戸川猪佐武によると、犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、その代わり、我々に借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか。」とやりこめられて、さすがにグーの音も出なかったという。戸川によると、尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやって、ポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ。」と言っていたということで、田中角栄シンパとして有名だった戸川は「そんなことを言っているから尾崎は政界で孤立したのだ。」と書いている。

2009年01月22日

死刑囚に対する効果

現実に死刑を宣告もしくは確定した死刑囚であるが、その効果は死刑囚ごとに違いがあるといえる。贖罪の手段として受け入れるもの、初めて事の重大性を認識し絶望するものもおり、この時点で死刑になることで、ようやく犯罪行為に対する罪の清算を社会が求めていると認識させることができる。だが、なかには現実を認めず無罪を主張するものや、別の感情を抱いている場合もある。実際に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮?勤元死刑囚も恐怖を手紙で訴えている。
たとえば光市母子殺害事件の被告人は2008年4月3日に報道機関の取材に応じ[8]、その中で「僕は死刑存置主義者ですから。終身刑も検討して欲しいと思っていますけどね。ただ判例として僕が死刑になるのは避けたい。ほかの少年少女の事件にも大きく影響するんですから」と発言した。この発言の真意は不明であるが、死刑制度が存在することを認める一方で、自身にそれが適用されることについては可能ならば避けてもらいたいとの意識が働いているといえる。また前述のように自ら望んだ結果として死刑になったような制度を悪用し自らの願望を叶えた死刑囚も存在する。
アメリカ合衆国の元死刑囚ゲイリー・ギルモアのように、宅間と同じく『死刑囚の死ぬ権利』を求めた事例も少なくないため、死刑囚に残された最後の「権利」であるとの主張もある。ただし、このような死刑囚は改悛の情や贖罪の情といった自己の犯罪に対する反省の感情は見られないのはいうまでもない。また刑法学者(植松正など)のなかには、大量殺人を含めいかなる罪を犯しかさねようと犯人の生命を法が絶対的に保障するのは妥当ではない。よって、そのような凶悪犯の死刑は生命を保証するわけにはいかないため、致し方ないという主張[9]もある
以上のことから死刑の威嚇力とは、「凶悪な手段で人を殺せば死刑になる場合もありえる」との通常の判断力を持つ一般市民には有効であるが、死刑になるような事件を引き起こす凶悪犯罪者に対しては、一部とはいえ抑止力が無力である場合も存在し、なかには自身の破滅願望を実現する手段として悪用される場合すらある。このように死刑制度を自らの破滅願望実現の手段に悪用する、一部の犯罪者に対して死刑の威嚇力を逆に悪用している犯罪も現実に存在している。当然のことであるが、このような自分から望んで死刑になった者にとって、死を待望したわけであり刑罰とはならないといえる。
そのため、死刑に関する情報公開によって、罪と罰について啓発する必要性を説くものもいる[10]。

処刑方法
現在74カ国の死刑存置国で行われている、処刑方法は以下の通りである。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

絞首刑 (エジプト、イラン、日本、韓国、ヨルダン、イラク、パキスタン、シンガポール他)
電気処刑 (米国アラバマ州、サウスカロライナ州、バージニア州、フロリダ州、ただし処刑対象者が薬殺刑を選択できる。電気処刑による死刑執行は米国ネブラスカ州で最後に行われていたが、2008年2月に同州最高裁判所が憲法違反判決を出した)
ガス殺刑(米国アリゾナ州、メリーランド州、ミズーリ州、カリフォルニア州、ミシシッピー州、ノースカロライナ州、コロラド州)
致死薬注射 (中国、グアテマラ、タイ、米国の死刑を執行している上記以外の州)
銃殺刑 (ベラルーシ、中国、北朝鮮、ソマリア、台湾、ウズベキスタン、ベトナム他)
斬首刑 (サウジアラビア、イラク)
石打ち刑 (アフガニスタン、イラン)
公開処刑は、中国、イラン、北朝鮮、サウジアラビアなどで行われる。
刑罰の一覧を参照。
死刑の執行、つまり人を殺すという行為を実際に行う者を死刑執行人と呼ぶ。 ヨーロッパ諸国では中世時代から死刑執行を業務とする死刑執行人が存在しており、死刑制度廃止まで存続していた。 アメリカや日本などでは刑務官が行っている。

2009年01月15日

ウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった

逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである。かつてウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家アドルフ・ロースの紹介によりウィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子パウル・エンゲルマンは、すでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである。細部も含めて設計図が完成したのは1926年のことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである。ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている。ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった。当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、モダニズム建築としてある程度の賞賛を得た[13]。この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。

同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際も1931年には破綻した。

ウィーン学団
ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師として悪戦苦闘していたころ、学会では『論考』が話題の的となっていたが、特にウィーン学団の名で知られる研究サークルでは、出版直後の1922年にハンス・ハーン(Hans Hahn)が『論考』をゼミのテキストに用いてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読するなど、並々ならぬ関心を寄せていた。

ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、マッハやラッセル、ヒルベルト、アインシュタインらの画期的な研究成果に刺激を受けたウィーン大学の若手の学者たちが集まったサークルを母体とする研究グループである。その中心となったのはモーリッツ・シュリック(Moritz Schlick)やルドルフ・カルナップ、フリードリヒ・ワイスマン(Friedrich Waismann)らであり、やがてヘルベルト・ファイグル(Herbert Feigl)、フィリップ・フランク(Philipp Frank)、クルト・ゲーデル、ハンス・ハーン、ヴィクトール・クラフト(Victor Kraft)、カール・メンゲル(Karl Menger)、オットー・ノイラート(Otto Neurath)など錚々たるメンバーを擁することとなるこのサークルは1929年にウィーン学団を名乗るようになる。ウィーン学団は論理実証主義を標榜し、形而上学を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。そんな矢先に現れた『論考』は彼らにとって『聖書』のようなものとさえなった[14]。

シュリックは1924年に「自分は『論考』の重要さと正確さを確信しており、そこに述べられている思想を世に知らしめることを心底から望んでいる」との手紙を当時プフベルクにいたウィトゲンシュタインに書き送り、何とか面会したいという意向を伝えた。ウィトゲンシュタインは快い返事を出したが、両者の都合がつかなかったためもありシュリックが実際にストーンボロー邸に滞在していたウィトゲンシュタインのもとを訪れるのは1927年2月のこととなった[15]。ウィトゲンシュタインはすぐにシュリックが理解力もあり人格も高潔な優れた人物であることを見て取り、それ以後たびたび会合をもって議論を交わすようになった。

シュリックはウィトゲンシュタイン本人をウィーン学団に引き入れようとの意向をもっていたがこれは叶わず、それどころか当初ウィトゲンシュタインは学団の討論会に顔を出すことすら拒絶した。何度かの会合を経たのちにようやくシュリックはウィトゲンシュタインから「学団の討論会とは別のところで、ごく少数の気の合いそうなメンバーとだけなら会ってもよい」との返事を引き出すことに成功する。選ばれたのはカルナップ、ワイスマン、ファイグルらであった。シュリックはそれまでにウィトゲンシュタインと接して得た経験から、いつも学団で交わされているような哲学談義をウィトゲンシュタインが望んでいないことを理解していたので、他のメンバーにはなるべくこちらから議論をもちかけるのではなくウィトゲンシュタインに自発的に語らせるよう厳命した。するとウィトゲンシュタインは彼らに対して「自分はもう哲学には関心がないのだ」と強調したり、突然タゴールの詩(その神秘思想は論理実証主義の対極にある)を朗読するなどしてカルナップらを驚愕させた。一方のウィトゲンシュタインもまたシュリックらとの議論を通して彼らが『論考』を根本的に誤解しているとの考えに至り、ときには議論を全く拒絶した。

こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインはカルナップとファイグルに対しては方法論や関心事だけでなく気質的にも相容れないものがあると感じて距離を置くようになる。こうしてウィーン学団との交流はシュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とはのちに『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。しかしウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)の1936年にシュリックがウィーン大学構内で反ユダヤ主義者の学生に射殺される[16]と、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は一切断ち切られてしまう。

このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた1928年3月、ウィーンでオランダの数学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーが「数学・科学・言語」という題で数学的直観主義に関する講演を行なった。ワイスマンとファイグルは嫌がるウィトゲンシュタインをなだめすかしてこの講演に出席させることに成功した。講演終了後、三人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめたのである。そのときウィトゲンシュタインが語ったのは後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。またウィトゲンシュタインは同じころケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもあるフランク・ラムゼイとも会って議論を重ねているが、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。

哲学研究に再び取り組む意思を固めたウィトゲンシュタインは、ストーンボロー邸の完成した1928年秋からケインズと手紙のやり取りをしてイギリスへ行く予定を立て、1929年1月18日にケインズの客として16年ぶりにケンブリッジ大学へ足を踏み入れた。その日ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙にこう書いた。

―― さて、神が到着した。5時15分の電車に乗ってきた神に私は会った。"Well, God has arrived. I met him on the 5.15 train."